この目こそ、本当のものと嘘のものとを

 

  目の綺麗な人が好き。室生犀星の本に<誰にだって澄んだ目をしている頃がある>みたいな一文があり、私はその一文が(うろ覚えだけど)大好きになった。そして、犀星は目のことばかり書いているように思われた、詩人らしい繊細な表現で描写された目は、曖昧なようでいて、だれが読んでもきっと、近くにいる誰かの目を思い浮かべることができそうなとても綺麗な文章で。

 

 つらいことがあったり、さみしい気持ちで家路につくとき。私はついつい俯いてしまう。だから時々、努めて上を向いてみるのだけど、空は摩天楼の暴力的な光に曝されて、星も数えるほどしか見えず、より落ち込むというわけでもないけど、微妙な気持ちになる。沢山の人がそこで働いたり、遊んだりしていて、その中には多分私の友達や知り合い、喧嘩別れをした誰か、なんかもいて、それぞれがそれぞれの生活や人生を生きているのだなと。

 先日、23区の端っこに住んでいる人が「今日は星がよく見えるよ、空が綺麗だ」という意味のラインを送ってきて、今日ならばもしかして!と思って、深夜、お風呂上りに散歩がてら外にでてみたのだけど、確かにいつもよりはよく見えるかなぁくらいで、以前住んでいたところや、故郷には遠く及ばず。半ば忌々しい気持ちになって、東の方角をみてみたら、とっくに夜だっていうのに空が赤く燃えていました。

 そのとき、人の目も、きっとこういう風にして濁ってゆくのだと、言いようのない寂しさに襲われ。最初は誰だってきらきらした目を、瞳を、もっといえば資質を持っているのに、外からの圧力で段々と変質していって、しまいにはどうしようもなく死んでしまう。

 そして、私の目はどうしようもなく濁っている。嘘であって欲しいと思って、寝起きに顔を洗いにゆくときなど、じっと、鏡越しに自分の目をのぞいてみたりするけど、やっぱり濁っているもの。いつからこんな目になってしまったのかはわからないけど、もう、自分の体の一部をそういうものとしてー時々あらがいはすれどー自然に認識してしまっているのが悲しい。

 だから、目の綺麗な人が好きだ。吸い込まれるような目をした人が、その目を通して、私を浄化してくれるような人が好きだ。だれもがつらい人生の内にあって、目の輝きを、資質を、こどものような魔力を失わない人が好きだ。なぜか屑がおおいけど、濁ってる溝と澄んだ溝だったら澄んでるほうがいい。

 いつか、誰かとずっと生きてゆくかどうか決めることがあったら、相手のことを、よくしっているつもりであっても、目をしっかりと見ないといけないと思う。キラキラしているか、めちゃくちゃに濁っている人でないとやってゆけないような気がするから。

 

或る少女の死まで―他二篇 (岩波文庫)

或る少女の死まで―他二篇 (岩波文庫)

 

 

 

全曲集

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 多分これにしか入ってない夜が好きなの。淡谷のり子の曲貼ろうと思ったんだけど、あんまりユーチューブにないのね。