12月

スーパーなどありとあらゆる商業施設でワムのラストクリスマスや、聞き覚えはあるが曲名の全く分からないクリスマスソングが延々と流れ続ける季節になった。街角にはリースやツリーが突如として現れ、百均にすらもクリスマスグッズが溢れている。

もう、こんな季節になったのかと思うと同時に、クリスマスという季語から連想される凍えるような寒さとは程遠い気温に違和感を覚える。今年が暖冬というのは本当らしい。吐く息が白くなるどころか、昼間は妙に暖かく、歩いていると少し汗ばむほどで、それでいて夜はある程度冷え込むために、何を着て外に出ればいいのか全く分からない。秋はあっという間に過ぎ去った気がしたが、冬が中々訪れない、なんだか不気味な感じだ。

 

そんな気候だからか、自分も含めて、身の回りで心身に不調を来す人が多く、やたらとイライラしていたり、落ち込んだりしている姿が目に付く。そうした姿を見るとシコっておちつけよ、俺はいつもそうしてるよ、といいたくなってしまうが自重している。そもそも、悩みやイライラが極限に達するとシコることすらままならなくなるし、年齢を重ねるとシコるのも難しくなると聞く。他者の気持ちを想像しながら考えてみると、自慰一つとっても気を遣うことが多い。俺自身も自律神経がやられているのか、日照時間の不足で、気が塞いでいるのか、ダウナーな気分で一日を過ごしていることが多い。特に、夜、同居人が寝てしまった後などは、昼間の自分の無能さにあきれ果てて、暗澹たる気持ちになることがしょっちゅうある。そうしてオナニーの回数が増えていく。

 

最近、近くに壊れてしまいそうな人がおり、自分の仕事ぶりを自虐しだしたかと思えば上司と喧嘩してみたりしていて(久しぶりにマジギレしている人を見た、またキレても一人称が私のままである点に妙に感心した)、精神の均衡が崩れつつあるように見える。自慰では解決できない案件だ。俺は、その人のことが結構好きだし、急に辞めていなくなったりしたら寂しいと思う。こんな時こそ、そのことを上手く伝えられればと思うが、残念ながら俺にはそんな対人スキルがないため、どうしたらいいものかと思っている。世渡り上手で、普段から人に優しい、器用な奴らならそんなことも、さりげなく行ってしまえるのだろう。最近は人を妬ましいとか思うことも減ったが、こういう時ばかりは、器用な奴らが羨ましくなってしまう。小学校の低学年の時、俺は虫が好きで、転校前は虫に詳しい男として、学校の花壇をいじるときなどは、これがマイマイカブリで~などと蘊蓄を披露し、詳しいねーすごいねーなどと言われていた。しかし、転校先では虫博士の座に君臨する眼鏡少年がおり、静かに、水面下で行われた花壇の周りにいる虫知識対決で俺は知識量で確実に勝っていたのに負けてしまった。それは何故か、誰も転校生のおしゃべりで空気も読めなければ方言も喋れないやつの虫蘊蓄なんて聞いていなかったのだ。途中まで、俺は優勢を確信していた。真の虫マイスターは俺だと、このペースでいけば皆気づくはずだと。しかし、時間がたつにつれ、その自信は絶望へと変わった。誰も俺の話など聞いていないのだ。静かに始まった虫対決は完全に俺の独り相撲に終わった。俺はくやしさのあまり、転校初日から仲良くしてくれた数少ない友達に、俺の方が詳しいのにどうのこうのと文句を垂れたことを覚えている。

 

この一件で、俺は人望の大切さや、普段の振る舞いが大切なことを知った。低学年にして、世渡りの大切さを知ったのである。しかし、その気づきは全く生かされず、俺は今でも社会の中で転校生のような気分で過ごしている。だから、先に書いたような状態にある人にかけるべき言葉がシコるといいですよくらいしかみつからないのだ。社会と俺の間には確実に超硬度のゼラチンの壁があり、突き破ろうとすると押し返してくる。ならばとかじりつき、食い尽くすことで、社会の側へ飛び出そうと試みるも、味付けのされていないゼラチンはまずく、おまけにいくら食べ進めても減る様子が全く感じられない。俺は仕方なしに、巨大なゼラチンを前にして、半泣きでオナニーをするしかなくなる。

 

この季節になると、帰省をしようか迷う。もう何年も帰っていない。大した愛着もない田舎の町。国道沿いの巨大なショッピングセンター、学校も行かずに夜中にうおうろしていた繁華街、気違いに急に殴られた路地、俺のゼラチン生産庫のような、クソみたいな思い出ばかりだが、楽しいことも沢山あった。永遠の友情を信じ、祈った瞬間や友達と話して心地よかったこと、楽しかったこと、どうしようもないメンヘラの俺に優しくしてくれた人たち。それらの事を忘れてしまったことはないし、そこにいた人たちのことにも、変わらぬ愛着を持っているつもりだ。しかし、なんだか、全てが遠くなり褪せていってしまっていくのを感じる。そのことに気づく度に、猛烈に寂しい気持ちになるが、こうして、時間を経るごとに、日々色々な思い出や、土地、人々に対して、お別れしていくのが人生なのかもしれない。借別の気持ちだけは忘れないようにしなくてはいけない。それが、弔いになるだろう。そして、帰省することがあったら、しばらく会ってない人たちにも連絡を取ってみようと思っている。会ってくれるかはわからないが、忘れるのが惜しい思い出をこれからも増やしていけたら、いつか地元の街も好きになるかもしれない。

 

明日も目覚ましをかけて起きる。だるいけど。